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佐藤継信・忠信の碑

[概要]
[さとうつぐのぶ・ただのぶのひ]

俗に双子石とも呼ばれている鎌倉時代初建の板碑であるこの2碑は碑面に銘文をとどめず、口碑を伝えるのみである。

佐藤継信・忠信兄弟は飯坂の佐藤一族で、平安時代末期の源平合戦の折、源義経の家臣として活躍し、兄弟ともに義経四天王と称された。

継信・忠信碑の伝承がなぜこの地にあるのか定かではないが、佐藤氏の菩提寺である飯坂医王寺にも同様の兄弟碑があり、この伝承も出自を伺わしめるものがある。

[住所]
宮城県角田市岡阿弥陀入11 市立北郷小学校裏山内
[電話]
0224-63-2221(角田市教育委員会生涯学習課)
[FAX]
[Email]
[URL]

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[詳細情報]
継信碑(東側)は高さ180cm、幅87㎝、忠信碑(西側)は高さ267cm、幅80cmの大きさで、自然石を縦長に用い、頭頂部を高くし、その下の額部を突出させて碑面を一段低く削っており、「東北型」板碑の典型などといわれていた。

佐藤継信・佐藤忠信兄弟と源義経

平治の乱の後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に入ったが、その後密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。

基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。

継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。

弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。

その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。

二人の嫁がしるし

継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。この話は、古くは幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本集「やしま」などでも語られている。

●角田駅より車で20分


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